在野人・砧井 さん ほか みなさんへ from yahantei
砧井さんの、蕪村臨終の三句に関連して、「芭蕉と蕪村の辞世の句を比較してみた
らどうだろうか」というのは、これは大きな示唆になると思います。几董の「から檜
葉」(上)は「蕪村終焉記」で、そこで、蕪村は芭蕉の「夢は枯野をかけ廻る」に直接触れていて、蕪村は、最後の最後まで「芭蕉への思い」というのがあったのだと思います。そして、蕪村は、はっきりと、芭蕉に比して、「愚老が本懐足ることを知れり」と、「恵まれた人生だった」といっているわけです。そして、その後に、いろいろと物議をかもしだしている、「よしあしやなには(浪速)の事も観念の妨げなるはと」という意味不明な文章があって、この「なには」については、「隠し子」説・「隠し女」説とか・・・、いろいろと諸
説紛々としているのですが、これも「浪速で客死した芭蕉」のことではなかろうか・・・・、と、ある方の示唆を受けたことがあります。
ですから、蕪村の臨終の「白梅」の句は、呉春に託したものというより、芭蕉と自分
の一生を回顧しながらの、連作の三句で、「冬鶯」二句から初春の一句で蕪村の涅槃
のイメージととって、さらに蕪村が始めて「蕪村」の号で、『宇都宮歳旦帖』で「古庭に
鶯啼きぬ日もすがら」に対応しているというのが、「seisei」説です。
> > 三句全体を通して深読みすれば、蕪村は月渓に対して”心の安らぎ“を求めて
> > いたのではないだろうか。
>>蕪村が呉春に対して少しは甘えが有ったのでしょうか…。
俳諧の方には、几董以下錚々たる「夜半亭一門」が控えていますが、本職の絵画
の方の内弟子は、「呉春・梅亭」の二人で、この二人が内弟子として、蕪村の身辺
に控えていて、この二人と几董とには相互に「心の安らぎ」や、そして、「甘え」も
許されていたということで、この三人のうちに、特別「呉春」のみ特別視したというこ
とはないというのが、「seisei」説です。
呉春は几董生存中までは、俳諧にも力を入れていますが、几董没後は、ほとんど
俳諧から遠ざかります。こと、俳諧に関しては、呉春は、蕪村だけでなく几董をも
常に念頭に置いていたのだろうと思います。
もう一つ、呉春の後妻になる「梅女」に関連して、「梅女は蕪村が好きだったのだ
が、蕪村が亡くなり、それで、呉春の後妻となるが、呉春はこの梅女に何時も蕪村と比較されるので、酒色に溺れた」というような面白い記載もあり(谷口謙著「蕪村雑
稿」)、春乃さんの宿題は、ますます、混迷の度を増してきますが、今回の、在野人さんと砧井さんの直感力は、その一面はついているというのが、今回のメールに接しての感想です。「鑑賞の広場」で、「子規と虚子の両吟」の鑑賞に追われて、「蕪村の自賛句」が続きませんが、今度は「柳田国男・折口信夫・土岐善麿の三吟」が目に留まり、またまた、道草が続きそうです。
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