『宇都宮歳旦帖』宰鳥(蕪村)歳旦吟 (6)その他(ワイワイガヤガヤ)交流広場

 [鳥既に闇峠年たつや]の句意についての考察



『夜半亭発句帖』に収められた早野巴人(夜半亭巴人)のこの句について、宇都宮蕪村研究会の諸先生方々から「鳥」とは「掛け鳥=借金取り」の事であるとの見解を伺い大変面白いと思いました。
当時の庶民にとって、「つけ」で買った「掛け買いの代金」を大晦日に清算することが年中行事であり、その為の"金銭のやりくり"は頭の痛い事であったと想像出来ます。その借金取りは「掛けとり」と言われ、早く飛び去ってほしい"憎たらしい鳥"であったとの事、何故ならば大晦日の総決算日が過ぎてしまえば、又「つけ買い」ができたからだそうです。やれやれと胸を撫で下ろし明るく新年を迎えたいとの"庶民の切実な願望"が込められ句です。実にユーモアに溢れる発句と感心し笑いを禁じ得ません。
この句は「鳥」がキーポイントになっていることは疑う余地がありません。この「鳥」によって"俳諧の俳諧たる面白さを際立たせている"と再認識致しました。
それと同時に、夜半亭巴人は「闇峠」という言葉を添える事によってこの句を更に「遊び心」が溢れる"俳諧の真骨頂"に高めていると思うようになりました。はじめにこの発句に接した時には、私はこの「闇峠」の意味が読み取れず、ただこの言葉からイメージされる「暗さ」を演出する効果ぐらいしか思が及びませんでした。しかし宇都宮蕪村研究会の先生方の解説を読んでいるうちに、昔読んだことのある本の中で「闇峠」に関連する記述があったことを思い出し、念のために本棚に眠っていたその本を読み返してみました。そして、「闇峠」に関連する事を調べて行く中で、巴人の意図が解るような気になりました。
「闇峠」に関連する事柄をここに紹介し御検討を頂ければ幸いです。

<第一> に「闇峠」が古来より「直越(ただごえ)の道」と言われていたと言う説が有る事です。
奈良から大阪に出る最短のコース、生駒山(草香山)越えは「直越の道」と呼ばれていたそうです。『万葉集』六巻に、草香山を越える時の歌として神社忌寸老麻呂(かみこそのいみきおゆまろ)が次のように歌っています。

● 「直越えのこの道にしておしてるや難波の海と名付けけらしも」

 「直越えの道」である生駒越えの道から、太陽に照り輝く大阪の海は一望でき、「押し照るや」と言う枕詞の難波の海が名付けられたのであろう……がこの和歌の意味です。
『古事記』にも雄略帝が「日下(くさか)の直越えの道より河内に幸行でましき」とも書かれてあるそうです。この様に古代より「ただごえの道」と言われていたのです。
また、本居宣長は「日下の地名の義は不詳であるとしながら、付近に暗峠(くらがりとうげ)と言う地名があることから暗坂(くらさか)という意でクサカと言ったのではないか」と言ったそうです。以上は『白鳥伝説』(谷川健一著・集英社)よりの抜粋です。
「暗峠」」は生駒山の南側にありますが、その他生駒山の北側にある「クサカ坂」を「直越(ただごえ)の道」とする説も存在します。後者が正しいとしても「暗峠」は「ただごえの道に近し」になります。
これらを踏まえるならば、「闇峠」とは「直越(ただごえ)の道の峠」、又は「ただ越え近い峠」と言う事になり、直越えの「ただ」は、@ 一銭も払わないことの意味、A 時間的にもうじきの意味になります。
 そのように考えると、夜半亭巴人の句意は……「掛け鳥」の借金取り立ては今将に「ただ越えの峠」である。そして新年がやって来ると言う理解になります。滑稽な中にも、貧乏に喘ぐ庶民の「借金を払わずに新年が迎えられたら・・…」と何とも切実な願望が込められている思うのです。

<第二>の事柄は、万葉集の歌があるとおり「直越えの道」から太陽に輝く難波の一望できたと言うことです。難波といえば古代の難波高津宮があった場所です。そして「高台から窯の烟を見て百姓の貧しさを知り、課役を除した」と言う仁徳帝の「善政・聖の政治」が有名です。
私は「闇峠の先に見える景色が、明るく広々とした難波である」と言う事柄がとても重要な気が致します。「闇峠」を通過して風景がガッラと変化する事は、多分その街道を通った経験者であるならば実感するにちがいないと思うのです。風景の劇的変化は、闇に象徴される「借金地獄」の暗いイメージを一変させ、「光り輝く難波」を望むような明るい気持ちで新年を迎える転換点になっていると考えます。その様に考えると滑稽句にプラスして社会派的な政治批判要素も加わってきます。
謡曲・世阿弥の作品に、聖人の治政と天下泰平を祝福する『難波』(古称―難波梅)がありますので、観世流の謡曲作家である露月を親友に持っている巴人はこの「難波」の望む「ただ越えの道」にこだわりを持って意識的に「闇峠」を挿入した可能性も十分に考えられると思います。
勿論、これは、大和から難波へ向けて「直越えの道」を通る場合を想定した話です。この逆コースを考える必要もあると思います。 では「闇峠」から大和平野をの望んだと仮定した場合はどうでしょう?そこにはやはり光溢れる光景が広がっている故事があります。これを第三の事柄です。

<第三>は、「闇峠」のある生駒山(草香山)には「天磐船」(別名・天の鳥船とも言う)に乗って降臨したと言う饒速日(ニギハヤヒ=物部氏の祖)の伝説があります。
「天磐船に乗りて、太虚(おほぞら)を翔行きて、是の郷を睨りて降りたまふに至りて、故、因りて目(なづ)けて『虚空見(そらみ)つ日本(やまと)の国』と日ふ」と書かれているように、「そらみつ」と言う大和(倭・やまと)の枕詞の命名者とも言える饒速日の伝承があります。
日本書紀の神武紀の中にも「…塩土老翁に聞きしに、東に美地有り、青山四に周れり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降れる者有りと日へり。……天下に光宅るに足りぬべし。蓋し六合(くに)の中心か。厥の飛び降れる者は、謂ふに 是れ饒速日ならむ。」との記述が残っていると言われています。
つまり、生駒山から「天下に光宅る」美しい国である「そらみつやまとの国」=大和平野が一望できたと言う事がわかります。
以上のように難波から大和平野を見ても、その逆に大和から難波を見下ろしても、峠を境に「光が溢れている光景」に出会うことになります。このように「闇峠」は将に「闇から光明への転換点」としてのキーポイントをなす言葉になっているのではないとも思うのです。明暗の転換のイメージは「闇」と言うこの一字でも十分に表現されているのですが、色々の故事を踏まえてこの句を鑑賞すると、殊更に彼の句意が面白く、深みと迫力を増してくるように感じるのです。

第四の事柄は、「闇峠」を松尾芭蕉は最後の旅で詠んでいる事です。

重陽くらがり峠にて
● 菊の香にくらがりのぼる節句かな

「闇峠」で詠んだ芭蕉のこの句を夜半亭巴人が知らないとは考えられない事です。また、巴人の俳諧仲間達は蕉風俳諧復興運動の先駆的な役割を果した人物が多いので、「闇峠」という言葉を耳にしただけで芭蕉の句を想起したと考える方がごく自然です。この「闇峠」と言う響きは殊更に心琴に触れる言葉であった可能性も十分考えられます。巴人自身も旅を重ねた俳諧師であり旅を愛しました。また親友の潭北や祇空も、芭蕉を後を追い旅をした俳諧仲間です。また潭北が編集した「汐越し」のはじめの旅は早見晋我も連れ添ったとの記述があります。途中から祇空が潭北と一緒に旅する訳ですが、特に祇空は法師の姿で旅に明け暮れていた俳諧師だそうです。それ故に祇空門下の俳諧は「法師流」と言われていたとの記述があります。旅先で迎える節句を詠んだ芭蕉の句は、これら旅を愛した俳諧師の心に沁みる響きがあったに違いないと思われます。実際に正月元旦は「節句中の節句」とも言えるお目出度い祝日です。
この第四の事柄を考慮すると、この巴人発句は「借金で苦しむ庶民」ばかりでなく「俳諧師など旅に明け暮れる漂泊人」を応援する暖かくも明るい人情句となるとも考えられます。

この「鳥既に闇峠年たつや」と言う五七五の短い詩から広がる世界がどのように展開していったのか?…感性・心に響くまま素直に鑑賞し繋げ、"遊び心"溢れる歌仙の進行していった事でしょう。想像してもとても楽しく、また緊張感も伝わって参ります。
発句から限りなく膨らんで行く世界、またとんでもない方向に展開して行く世界…それが連句の面白さ・醍醐味であるような気が致します。
夜半亭巴人が内弟子・蕪村の若き日に正座して伝えたと言う「俳諧の自在」とは、唯一無二の自己の感性に真正面向き合う事が何よりも大切であると言っている気が致します。
鑑賞と創作が同時に進行し、そして「自己の対象化」も直ちに連衆という座の中で限りなく自己融解して生まれ変わり新しい命を吹き込まれてゆく…。この和することによって産み出される世界は、音楽の和音や共鳴のように心地良く…又ある時は、破調の中で飛び跳ね踊る…連続の中で波のように脈動する…。恰も細胞と人体の関係のように一つ一つが命を繋ぎ、全体としても一つの有機的生命体としての調和し且つ躍動する世界…。
最近、私は「歌仙の面白さ」も少しずつ理解できるような気持になっております。かつてシュールレアリズム芸術が「物」を拘束している属性・既成概念の枠を解き放って「実体の不可思議」に迫ったように「自由の境地への飛翔」を感じます。限りなく広がる何か…それも西洋的でない東洋的なやり方での無限感の匂いです。連衆を媒介して実現される自在。短い詩の鑑賞と創作の連続と断絶。伝統を重んじながら十分に新鮮で全く新しい世界。すべてを取込み、かつ調和する東洋的な「和」が作り出す独特な芸術世界。連句を楽しめる境地は「自我の拘り」を捨て「対象化された自分」と素直に正面から向きあえる「心のゆとり」が必要と私は感じるようになりました。そしてこの「ゆとり」や「和の心」を、付け合いという短い時間や制約の中で実現する難しさも学べば学ぶほど解るような気になっております。難しく考えると本当に奥深く、簡単に考えると本当に簡単な事ですが、どんなに稚拙な力量でも感性に素直に向き合えば受け止めてもらえる「懐の大きさ」感じます。厳しい面と優しい面が同居する不思議な世界です。そして芭蕉も蕪村も「俳諧禅」と言う言葉を使っていたその意味が、朧げながらも少し見えてくる気が致します。

                              2002年 如月 
                               星 春乃



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